法の精神

先日読了。 

法の精神 (中公クラシックス)

法の精神 (中公クラシックス)

 

歴史的名著。三権分立で有名であるが、三権分立は少ししかでてこない。

序盤は、政体の話。共和制(民主政、貴族制)、君主制専制の3つを分類して比較。著者としては君主制を推奨。民主政と貴族制は、主権が全ての人民にあるか、一部の人民にあるかで区別。昔の男女同権が確立していない時代は、貴族制に分類されると思う。君主制基本法に従う。専制は皇帝そのものが法となる。共和制の原理は「徳性」であり、君主制の原理は「名誉」であり、専制の原理は「恐怖」である。

「民主政の腐敗とは、各人が平等の精神を失うだけでなく、極度の平等の精神を持つ時にもあらわれる」と看破していることが興味深い。また、「民主政含む共和制では、大きな財産や大規模な公共の福祉は存在しにくいため、小国に留まる」としていることも興味深い。いずれも現代社会の民主政とは異なる状況であり、だからこそ民主政が行き詰まっている要因であるように思う。

三権分立は、立法権、行政権、司法権と言われるが、原文では「立法権、万民法に属することがらの執行権(国家の執行権)、市民法に属することがらの執行権(裁判権)」となっている。ここで言う裁判権とは、裁判所だけでなく、警察や検察の機能も含んでいるように思う。刑事裁判での有罪率が高い現在、警察や検察と裁判所の機能が独立していないからである。また「同一人、または同一の執政官団体に複数の権力が結合されていると、自由はない」としている。現実の政党政治では、立法と行政の権力の分離がされておらず、さらに前述の通り司法も独立しておらず、自由が無い状態となっていると思う。ただし、それぞれを別の権力下に置くと、なにごとも決まらない非効率な社会になってしまう。別の権力下に置いても、「独立」にはならず「マイナスの従属」状態になり、反対のための反対がまかり通ってしまうからである。やはり、モンテスキューが看破したとおり、大国の民主制は成立せず、実質には道州制やコミュニティー型になっていくのが自然なのかもしれない。